普段は知ることのできない向井潤吉アトリエ館の舞台裏を、
関係者のコメントで紹介します。
第2回は、当館の命名にたずさわった元世田谷区職員による開館秘話を
2部に分けてたっぷりとお伝えします。
◆第2回その@◆ 
関 義朗
 (元世田谷区文化事業担当 元世田谷美術館友の会事務局長)


テーマ:「水門王居(すいもんおうきょ)逸話」
      
   室町時代、初代世田谷城主吉良治家は鎌倉鶴岡八幡宮造営のために、世田谷上弦巻の領地を寄進しました。 古来より弦巻には、吉良氏7代頼康の側室常盤姫ゆかりの常在寺が、すぐ西には8代世田谷城主氏朝が開基した実相院がアトリエ館より蛇崩川(じゃくずれがわ)を挟んだ北側にあります。 アトリエ館付近にも吉良氏ゆかりの長徳寺というお寺があったと伝わります。 昭和8年、向井潤吉先生は北に蛇崩川を望み東に蓮田が広がるタンチ山(※1)と呼ばれていた自然豊かなまた歴史上も由緒ある弦巻にアトリエを構えました。このアトリエ館に残る自然環境(左写真)を向井先生と静枝奥様はとても大切にしていました。   

   平成4年の初夏。築地塀と竹林の坪庭のある瀟洒な応接室「水門王居」(名前の潤を部首分けした=写真)に向井先生ご夫妻、お嬢様、そして私の4名が角突き合わせています。 区に寄贈する向井家住宅及びアトリエの開館を一年後にひかえての館名の検討です。 私の提案するミュゼ向井、向井潤吉ミュージアム等十数の拙い館名案を書いた一枚の紙を見てウーンと唸るばかりで結論に至りません。 飾られている向井先生模写のデュラ―の男性像も心なしかぼやけて見えます。 一月程度経ち原稿等の締め切り日が迫り執務室で切羽詰まっていたとき、ふと名案が浮かびました。 それが「向井潤吉アトリエ館」(アトリエ館と略)でした。


  ただちに向井先生、大場区長、大島美術館長の承諾を得て公式発表です。 土蔵づくりのアトリエが主展示室となる小さな個人美術館にふさわしい館名になったと密かに自画自賛してしまいました。 早速、向井先生に揮号(きごう)をお願いし、パンフレットや看板等に利用しました(右の写真)

  以前より向井先生は世田谷区の美術文化事業に積極的に協力していました。 昭和52年から玉川高島屋で開催していた区民絵画展の審査員と世田谷美術展組織委員を第一回から務め、私が昭和54年4月に区文化事業課に赴任した後も文化講演会講師、美術館基本構想検討委員、文化会議委員等を務めました。温和で気さくな人柄は、各会派の大御所が揃う在住作家のまとめ役的存在でした。“向井さんがOKだったら異論はないね”という具合です。ために美術担当の私は年中向井家にお伺いに上がります。当時30代だった私の依頼事をいつも笑顔で丁寧に応えてくれました。居心地が良くつい長居をしてしまい、奥様やお嬢様の点てるお抹茶などをいただきました。茶請けは初めて味わう銘菓二人静でした。

 砧公園への世田谷美術館計画が具体化すると、向井先生は在住作家が寄付する「世田谷美術館建設協賛基金」の代表になって建設に尽力します。そして開館後、大英博物館展など大型展の開催やユニークな教育普及事業が注目され、世田谷美術館の評価が高まり始めた平成3年春、向井先生から美術館に改修した自宅と全ての作品の、区への寄贈申出が私に打診されました。以前より、自宅に残る松等の木々の消失を危惧する奥様からその保存などの相談を受けていましたが、この申し出にはびっくり仰天です。当時、私が区長に具申していた文化のまちづくり計画の一つに、世田谷美術館以外に在住文化人の足跡を公開する地域文化施設整備構想がありました。向井先生からの申し出はまさにその魁となるものでした。以降、清川泰次記念ギャラリー、宮本三郎記念美術館の開設に繋がります。向井先生の世田谷区への功績は計り知れないものです。
第2回そのAへつづく)

(※1)タンチ山…檜と雑木で生い茂った林で誠に静かな武蔵野の名残をとどめた丘。当館に隣接する駒沢中学校の敷地内に今も残されています。世田谷区立駒沢中学校ホームページ内「タンチ山」はコチラです。

第3回は、6月中旬を予定しています。
これまでの「いまむかし」

 ◆第1回◆「耐震補強工事を振り返って」矢野進(学芸員/世田谷美術館学芸部美術担当課長/向井潤吉アトリエ館担当)