普段は知ることのできない向井潤吉アトリエ館の舞台裏を、
関係者によるエッセイで紹介します。
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向井潤吉は、1945年に同志と共に「行動美術協会」を結成し、11月5日付で結成の辞を発表しました。その後、生涯に渡り行動展(「行動美術協会」が主催する作品展。毎年9月に開催)で作品を発表し続けました。
最終回となる第7回は、行動美術協会の会員として、向井潤吉・良吉兄弟から厚い信頼を寄せられていた彫刻家・西山三郎さんによる回顧録を紹介します。
◆第7回◆
西山 三郎
(行動美術協会彫刻部会員)
テーマ:開館20周年によせて
小生は東京芸術大学美術学部彫刻科3年生の時に行動展に出品することを決めました。旧東京都美術館時代でした
(*1)。東京芸術大学美術学部彫刻科の菊池教室からは初めての参加者でした。その後、後輩が毎年出品するようになりましたが当初は友人もなく淋しい思いでした。
作品はセメントや石彫の大きな物でした。作品を搬入する度に床に穴を開けたり、3階に作品移動する時にエレベーターを故障させたりしました。その為に毎回、各階のすべての作品移動が終了するまで、行動展の事務所で待つ様に言われていました。
その時に最初に声を掛けて下さったのが向井潤吉先生でした。待ち時間には先生の指示で、焼酎や焼芋を買いに行きました。若い美少年の頃ですからこの使いが嬉しくて嬉しくて興奮したものです。その後色々と目を掛けてくださり、芸術家としての御指導をたくさん頂きました。常にユーモアの中で真実を教えて下さる先生でした。
向井潤吉作 「讃美歌」
(第9回行動展にむけて)
コ コロスマセテ、カンバス立テリヤ
ウ デノミセドコ、涙ト汗ヨ
ド ウヤラカイテ、ナラベテミタガ
ウ マイマヅイハ、人マカセ
テ ンシンランマン、エカキ族
ン ト描キマス、来年モ
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その一例として、昭和29年第9回展に生まれた「讃美歌」というのがあります
(右)。 現在でも生きている讃美歌ではないでしょうか。小生は彫刻家ですが作家としての魂は同じです。
小生は昭和40年第20回展(記念展)に会員に推挙されました。そして41年にはフランス政府給費留学生としてフランスの空気を吸い込む事になりました。2年6ヶ月日本を離れました。帰国後、昭和46年第26回展より行動展事務所を3回担当しました。彫刻部の向井良吉
(※2)先生にも「美術グラフ」の昭和41年度6月号に期待する作家として紹介して頂き一生の心の支えに成っています。
昭和54年第34回九州展(10周年記念展)でレセプションが開催された折には、潤吉先生に声を掛けて頂き九州まで出掛けました。先生の講演があり有意義なお話を聴きました。その節に録音を学芸員にお願いして録って頂きましたが、そのテープが行方不明で北九州市立美術館のどこかに眠っているのでしょうか。レセプションが終り、2次会、3次会、4次会と朝方まで接待を受け、眠いまま小郡駅(現・新山口駅)から新幹線に乗りました。往復切符を買っていたのですが、潤吉先生にグリーン車に席を変えるように言われて、先生の席の前に座りました。すぐに眠りこけてしまいましたが、その後車中では先生が若い頃の苦労話をして下さいました。京橋周辺の新聞配達所に住み込み、配達を終えてから川端画学校通ったということです。その後もそのまま先生と食堂車に移り、東京駅に着くまで楽しく酒を飲みました。今考えても二度と味わえない思い出の大旅行でした。
※1)現在の行動展は、国立新美術館で毎年9月に開催
※2)向井良吉(1918-2010)彫刻家。行動美術協会彫刻部創設に参加。向井潤吉の弟。
向井潤吉は、本文で紹介されている「讃美歌」をカッパの画伯のイラストと共にデザインして手ぬぐいを制作し、会員に配りました。
折りたたむと、小さな冊子になります。キャンバスに向かうカッパの画伯は自画像でしょうか。向井潤吉の温かくユーモラスな人柄が伝わってきます。
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