普段は知ることのできない向井潤吉アトリエ館の舞台裏を、関係者のコメントで紹介します。 第6回は、開設準備に携わり、その後20年に渡って当館を見つめてきた世田谷美術館学芸員による、 当時の思い出話を紹介します |
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◆第6回◆
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1993(平成5)年の節分を過ぎた頃、当時の世田谷美術館館長の大島清次氏に「向井潤吉アトリエ館の開設準備をやってくれ」との指示を受けました。学芸員としての経験も浅く、仕事を全うできるかという不安と、世田谷美術館を離れることへの若干の寂しさを感じたことをおぼえています。そして私は、桜の開花を待つ頃、改修工事を終えたばかりのアトリエ館に準備室を開きました。 世田谷区文化課から来られたベテラン係長のT氏、新規採用の若いM女史、そして私が準備室の当初メンバーでした。事務所スペースには、ポツンと電話機が一台。机はおろか、鉛筆一本もないところからのスタートでした。概して、事の最初とは、そうしたものでしょうが、「あら、ここからやるわけなんだ」という状況に、かえって可笑しさが心にこみあげました。 我ら開設準備室は、わずか3か月という短期決戦。即決・速攻・猛進の日々でした。今どきふうに言えば「今でしょっ!」と「じぇじぇじぇ」の連続。アルバイトできてくれたKさんやMさんなど、非常に頼りになる、しかも自発性に富んだ、かつセンスのいいスタッフに助けられました。今でも、素晴らしい人たちだったと、しみじみと思い出します。 私は世田谷美術館(今では分館も3館になったので、本館と呼んでいるが)での仕事も受け持ったままでの出向だったので、向井潤吉アトリエ館を開館させるまでのおよそ100日間、一日の休みもなく、夜討ち朝駆けの毎日を過ごしました。 当時、向井潤吉先生ご夫妻もお元気で、準備に苦心 梅雨明け前の7月8日(木)、9日(金)には招待者を招き内覧会を開き、7月10日(土)に一般公開をしました。連日、じつに多くのお客様にお越しをいただき、「その甲斐あり」との実感、そして喜びを得ました。しかし、実際にスタートしてみると、あれも足りない、これも足りないと、物心ともども不足があり、これを補う工夫を、オープニングスタッフと重ねたことが思いだされます。 その後、向井先生も、奥様の静枝さんも 向井潤吉アトリエ館は、向井潤吉先生の画業を顕彰する場であり、かつ、武蔵野の面影を残そうとした向井ご一家のお気持ちのあらわれです。向井先生が描き続けられた草屋根の民家のルーツを辿ろうとすれば、石器時代にまで時間を遡行することになりますが、それはおおき過ぎる話として脇においても、明治から現在にいたるまでの時間を見渡すだけで、その存在は日本人の生活の変遷に寄り添ってきたことは明らかです。また戦後の日本洋画界の動向を顧みた時、向井先生の一連の作品群は、きわめて独特な光彩を放っています。 民家を題材としたおのおのの作品には、各取材地の風土、風景が描きとめられていますが、それらをもっと広く深く眺め、繋ぎ合わせていくことによって、私たちは日本の風土全体が あれから20年。その歳月のながれが早かったことを想いつつ、心におこることを |
◆第5回◆「開館前夜のアトリエ館にて」 松尾 子水樹 (元向井潤吉アトリエ館開設準備室アルバイト職員) 8月17日更新 ◆第4回◆「向井潤吉の武蔵野をめぐって」 吉川(旧姓・守安) 美栄 (元向井潤吉アトリエ館担当学芸員) 7月10日更新 ◆第3回◆「『アトリエ館歳時記』制作当時を振り返って」 大竹惠子 (色鉛筆画家、元向井潤吉アトリエ館非常勤職員) 6月20日更新 ◆第2回その@◆「水門王居逸話」 関 義朗 (元世田谷区文化事業担当 元世田谷美術館友の会事務局長) 5月23日更新 ◆第1回◆「耐震補強工事を振り返って」 矢野進(学芸員/世田谷美術館学芸部美術担当課長/向井潤吉アトリエ館担当) 4月2日更新 |